被災地からの市民メディアの発信

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09/26/2011 by kaztaira

24日の土曜日に、仙台のせんだいメディアテークで開かれたイベント「被災地・被災者からの発信~市民メディアは立ち上がる~」を見てきた。東北新幹線は前日の23日、震災前の通常ダイヤに復旧している。

被災地・被災者からの発信

2004年から続く「市民メディア全国交流集会」(市民メディアサミット)の9回目として開催予定だったが、東日本大震災を受けていったん開催を見送り、改めて「<番外編>イン仙台」として企画されたものだという。被災地での市民メディアの取り組みについての、11団体による展示企画も行われていた。

被災地での市民メディアの取り組み、展示企画

市民、住民が主体になり、地域の情報、話題をケーブルテレビやコミュニティーラジオ、ネットを使って発信していく「市民メディア」。当事者たちが、その地域で求められる情報を発信するという取り組みが注目を集めたのは、1995年の阪神大震災だった。この年はまた、インターネット接続機能のついた基本ソフト(OS)、ウィンドウズ95が発売され、その普及の起爆剤となった「インターネット元年」でもあった。

 個人やグループが安価に、簡単に、メディアとして情報発信をする動きは、ブログの広がりで加速する。米国では、そのきっかけとなったのが2001年9月11日の同時多発テロだった。求められる情報、錯綜する情報――マスメディアがカバーし切れないその情報の空白を、ネットユーザーの一人ひとりがメディアとなって発信することで、必要とされる情報と、それを必要としている人を結びつけていく。「市民ジャーナリズム」という呼び名も知られていく。
 それから10年。3月11日の東日本大震災で、被災地・被災者は情報発信にどう取り組んだのか。その当事者たちの議論が、このイベントだった。
 基調講演をした石巻出身のNHK仙台放送局アナウンサーの津田喜章さんは、担当する番組「被災地からの声」(日曜日朝8時・現在は東北ブロックで放送)では、被災者が「今いちばん伝えたいこと」をスケッチブックに書き、それについての思いを語ってもらうというシンプルなスタイルで、これまでに約940人の声を紹介してきたという。
 「被災地、被災者の列は長い。ひとくくりにがんばろう、前を向いて歩こうとは言えない。かんばろうとはただの一度も言っていない」と津田さん。その一人ひとりの思いも、簡単に聞かせてもらえるものではない。「被災地からの声」のインタビューでは、それぞれ1時間、2時間と話を聞いて、ようやく本音を口にしてもらえるという。「言葉を投げかけるのではない。僕たちは(被災者の言葉を)聞いている」
 そして、「被災地以外の人は、被災者から目を離さないこと、それが大事」と話す。
 後半は、仙台市泉区のコミュニティーFM「fmいずみ」防災キャスターの阿部清人さんをコーディネーターに、パネルディスカッションが行われた。
 パネリストの一人、高橋厚さんは、元東北放送アナウンサーで、退職後に移り住んだ宮城県山元町で被災。の防災無線のアンテナも壊れ、広報車も津波の犠牲となり、情報が途絶する中、震災10日目に町役場の一角で震災臨時FM放送局「りんごラジオ」を開局した。今もプレハブのスタジオから放送を続け、ブログでも情報発信をしている。
 「マスメディアは全国、県域レベルのニュース判断で、『大変でした。今どんなお気持ちで』と聞いてしまいがち。ネタ、話題として扱っていないか。コミュニティーFMは町民意識、同じ目線の価値判断。同じ被災町民として、そんな一歩下がったクールな聞き方はできない。町民に近寄った気持ちの共有ができないと、生きた情報は得られない」と高橋さん。「現役時代、放送で泣くのはプロじゃないと言っていたが、りんごラジオの放送席で何十回泣いたかわからない。一人の町民となると自然と涙が流れる」
 ただ、「町民からの情報提供はほとんどなかった。聞いていないのかというと、そうではなく、反応はよかった。これまでずっと町民は、情報の受信側で、発信側でもあるということ、その行動に結びつけられなかった」と高橋さんは言う。
 さらに気になっていることもあるという。「マスメディアがりんごラジオを〝支局〟的に扱うことがある。対等な協力は惜しまないが、マスメディアの支局ではない。マスメディアと市民メディアの関係を考える上での宿題」と高橋さん。
 もう一人のパネリストの三浦宏之さんは、仙台のベンチャー、プラスヴォイスの社長。耳の不自由な人が音声電話を使いたい時、テレビ電話を介して、手話のできるスタッフが代わりに電話をかけるという代理電話サービスなどに取り組んでいる。
 震災関連の情報発信手段として使われた防災無線やラジオだが、聴覚障害者には届かない。「停電で携帯も通じない。そこで聴覚障害者は、まず何したか。部屋の掃除を始めたと。防災無線、サイレンもわからないで片付けをしていた。隣の人にわからないまま手を引かれて一命とりとめたというケースもあった」
 おこで三浦さんは、安否確認、震災情報の発信に、文字メディアである「ツイッターを使った。安否確認がとれない人を発信し、それを見た全国の誰かを通じて、メールで本人に連絡が届くようにした」。
 今月からは、日本財団の事業を受託し、被災地の聴覚障害者に、コミュニティーFMなどの情報を文字や手話に通訳して提供したり、代理電話サービスを行っているという。「(テレビ電話などの動画通信には)今はアイパッドなど、何でも、どこでもできるハードウエアもそろってきている。みんなで伝言ゲームのように伝えてもらう、そんな形にしてもらえれば」と三浦さんは言う。
 岩手県久慈市出身の内山裕信さんは盛岡のITベンチャー、アウィッシュ社長。友人も多い久慈に近い沿岸の岩手県野田村などの被災地支援に取り組む。
 「ツイッターやブログは、誰が何を言っているのかがわからず、信じられない。それで、(実名原則の)フェイスブックを使い、友達に発信した」と内山さん。さらに、ボランティア経験のある友人らと3人で復興支援サイト「ねまる」を立ち上げた。
 ペットボトルを簡易湯たんぽとして使うためのカバーの作り方をフェイスブックで相談したり、毎日がおにぎりと味噌汁の大船渡の避難者のために、ふりかけ、漬けものなど〝ご飯のおとも〟の送付を「ねまる」で呼びかけたり。
 「フェイスブックでは150人を超すつながりがある。そのそれぞれが100人ぐらいにつながっていて、情報は1万5000人ぐらいに広がっていく。フェイスブックのつながりは、私の活動の仲間内の作戦本部のようなもの。そこで決めたことを『ねまる』で掲載する。『ねまる』は外からの支援の受け皿として機能している」といい、すべてをひとつのメディアでやるのではなく、ツールごとの使い分けと連携を実践している。
 「誰も英雄にならな、誰も無理をしない、誰も傷つかない」。それが支援をするときに決めたルールだという。支援のつなぎ役に徹し、自分たちの能力を超えたことに広げていくのではなく、小さい単位、顔の見える範囲の中で活動を続けている。
 4人目のパネリストは東北大学文学部の福長悠(はるか)さん。上海への留学経験を生かし、中国語で震災情報を発信するブログ「東日本NOW!」を立ち上げた。
 「中国の友人から次々に励ましの連絡をもらい、その返事を一カ所にまとめてブログにし、被災地、ボランティアの状況、復興の取り組みを記事にしていった」と福長さん。
 「海外や日本在住の外国人に何を伝えるか。悲しみと無力感があったが、それでも応援してくれる中国人がいて、ボランティアに行きたい、という連絡が来たりする。自分ができるのは、日本対中国のような大きなことではないが、一人を伝え、それで一人が動き、それが何回も連鎖していけば、何もやらなかったより、貢献できるのではないか」。そう、ブログへの取り組みを話した。
 ツールとしてのネットメディアを考える時、どうしてもその機能や規模、スピードの威力に目がいってしまう。盛りだくさんの、洗練された機能はあるか、サービスとしてスケール(大規模利用)できるか、と。当事者から見た、ツールとしてのメディアは、そんなことは関係ないのだと、改めて学んだ。
 必要とされる情報と、必要としている人を結びつける。そのために必要なことがあり、それにうまくはまるツールがあれば、それを使う、なければあるものを組み合わせて使う。つながりのある人、手に届くところにあるツールを通じて、物事を少しずつ動かす。
 リアリティーのあるメディアとは、そういうことなのだろう。

 

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